本を質高く読むという作業は「熟読」(あるいは精読)という言葉で語られます。これは「速読」の対極にある読み方として理解されている言葉だと言っていいでしょう。
でも、本当に“熟読したら深く読める”のか── このことは、ちゃんと考えておかなければなりません。
実際、私たちは学習法であれ読書法であれ、学校教育で指導されたことをそのまま(場合によっては拡大解釈して)正しいと信じてしまっていることが多々あるものです。
例えば、
- 憶えたい言葉は何度も紙に書いて憶えるといい。
- 音読すると理解や記憶などの学習効果が高まる。
- 憶えたい重要箇所には傍線を引いておくといい。
- 教科書を読みながらノートにまとめると記憶に残りやすくなる。
- 自分のVAKの感覚特性(優位性)に合わせて教材を選ぶと学習効果が上がる。
これらのことは、何となく効果がありそうな気がして多くの人が信じてしまっています。
実感として「その場の手応え」は確かに「ある」はずです。何となくでも。
でも、それが本当に学習として効果が上がったのかどうかは、試験の結果や数ヶ月後の記憶・知識の定着具合から判断すべきものです。
そして、残念ながら科学的な実験で、上記のことはほとんど学習効果が上がらないことが分かっています。
閑話休題 ──「熟読」の話に戻りましょう。
学習法の迷信(都市伝説)は、「やったら無駄だった」というレベルの話ですので、大した話ではありません。
しかし、読書法の迷信、とりわけ「ゆっくり丁寧に読みさえすれば、本は深く理解できる」といった言説は、学びの基本とも言える読書に誤解を生み、その人の学びを小さく狭いものにしてしまう可能性があり、被害が大きいと思うのです。
本当に、じっくり丁寧に読めば深く読めるのでしょうか?
ゆっくり丁寧に読んで得られるもの・得られないもの
丁寧に読んで得られるもの
ゆっくりと言葉のつながりを追っていって分かるのは、およそ次のような要素です。
- 言葉と言葉、文と文、段落と段落といったもの同士のつながり
- ストーリーあるいはロジックの展開・流れ。とりわけ複雑な文章(複文のつらなり、みたいな)の構造
- 書かれていない言葉、省略されたロジックを埋める推論(橋渡し推論)
例えば、ロング&ミリオンセラーとなった『タテ社会の人間関係』(中根千絵著)という本の前書きに記されたこの一文は、丁寧に追っていかなければ雰囲気しか伝わりません。
したがって、筆者がここに提出する、日本の諸社会集団にみられる諸現象から抽出された構造の理論的当否は、その論理的一貫性(logical consistency)ばかりでなく、実際の日本社会に見られる諸現象、日本人のもつさまざまな行動様式、考え方、価値観などに対する妥当性・有効性(Validity)の存否によってもテストされうるのである。
──『タテ社会の人間関係』(中根千絵著)前書きより
英語の関係代名詞バリバリの複文に比べれば、まぁまだマシな方ですが…
でも、語彙という面でも分かったような、分からないような言葉が並びますし(妥当性・有効性など)、ついつい何となく流して分かった気分で読んでしまいがちです。
この文を分解しますと、次のようになります。
濃い赤が主語、濃い青が述語、薄い色がその修飾語です。
こういう文を読み慣れない人は、やはりじっくりと分析的に読む必要がありますし、そこに時間をかけることは「割に合う投資」ということになります。
ですが、「だからゆっくり読むことが大切。速読は邪道。」というのは完全に的外れな論なのです。
丁寧に読んでも意味が分からない例
「丁寧に読めば深く理解できる」ことが幻想であることを、いくつか例を出して体感していただきましょう。
まずは、認知心理学では有名な例文です(フォーカス・リーディング講座でも毎回使う例文ですね)。
布がやぶれたので、干し草の山が重要になった。
どれだけ丁寧に読んでも、何を言っているかは伝わりません。
この文に欠けているのは、これが何についての話なのか?というコンセプトの共有です。
あるいはこちらはどうでしょうか。
茂樹は調べたいことがあったので、カバンの中にしまっていた携帯電話を取りだした。
こちらは「え?別に意味不明じゃないよね?」と思うと思います。
では…と考えていただきたいのですが、この文を1980年代の人が読んだとしたらどうでしょうか。── きっと「えっ?」と思いますよね。ノラさんのパフォーマンスで有名になった、かつての携帯電話はカバンの中にしまえるシロモノではありませんし、何かを調べるために使うものではありませんでした。
何かを理解しようとする時、自然と(無意識に)「時代の文脈」の共有されていなければならないわけです。
もう少し、マニアックな例を出してみましょう。丸山真男著『日本の思想』の一節です。
何かの時代の思想もしくは生涯のある時期の観念と自己を合一化する仕方は、はたから見るときわて恣意的に見えるけれども、当人もしくは当時代にとっては、本来無時間的にいつもどこかに在ったものを配置転換して日の当たる場所に取り出して来るだけのことであるから、それはその都度日本の「本来の姿」や自己の「本来の面目」に還るものとして意識され、誠心誠意行われているのである。
恐らく多くの人は、この前後の文脈を提示されても「???」となるはずです。
この文章で使われている言葉を知らないわけではないけれども、あまりに抽象的・非日常的な言い回しのために、言葉と言葉がうまく結びつかず(「共起」に慣れていないため)、したがってどれだけゆっくり丁寧に読んだとしても、何ら具体的なイメージが沸いてこないのです。
著者の語るコンテンツが下敷きにしている言葉、学問領域など、前提となる知識が欠けていると理解が深まらない例です。
深く読むために必要なこととは?
実は深く理解するためには、様々なことを前提として理解していなければなりません。
ここでは「4つの文脈」として説明してみたいと思います。
1.書籍全体の文脈(マクロの構造、論の展開)
ある文に書かれていることは、当たり前ですがその前後の文章とのつながり(つまり「文脈」)の中で理解されます。
それすら読み取れず、「点」だけ拾って満足してしまう人も多いものですが…
2008年に出版した『フォーカス・リーディング』の中に、こういう一節を書きました。
多読しても成長できるとは限らない。むしろ多読が成長を阻害する。
─ 書籍『フォーカス・リーディング』(寺田昌嗣著)p.46より
この言葉に反応して「フォーカス・リーディングは多読を否定している」と捉えた人が非常に多かったのですが、アマゾンのレビューにも
「著者は多読を否定していながら、ホームページでは受講者の声で“たくさん読めて助かっている”という事例を並べるなど多読を煽っていてたちが悪い」
そんなコメントをぶつける人がいました。
しかし、この文が出てくるチャプターのコンセプトは「何かに煽られて、読みやすい本ばかりをたくさん読んでいないか?」という問いかけ(警鐘)です。その文脈の中で、この文を読まなければなりません。実際、上に引用した文というのは、その直前にこんな文があるんですよ。
情報過多のこの時代、必要に応じて自在に多読をこなす力は不可欠ですが、意味もなく煽られて多読に走るのはナンセンスです。
─ 書籍『フォーカス・リーディング』(寺田昌嗣著,PHP研究所)p.46より
多読しても成長できるとは限らない。むしろ多読が成長を阻害する。
※引用中の赤下線は、このブログでの強調。
もう少し視野を広げて、書籍全体の論調、主張の構造からトップダウンで「この一文は何を言わんとしているのか?」と考えることは非常に重要です。
文章を深く理解するためには、ミクロにフォーカスし過ぎてはいけません。マクロの構造や全体の文脈から一文の意図を読み取れるような俯瞰する意識が非常に重要な意味を持ってくるというわけです。
2.著者・業界の文脈
どの本も、本の中の、閉じたロジックでは整合性がとれているものです。それすらできていない本は読むに値しません。
しかし、重要なことは、他の類似書と対比して、その主張を相対化して理解することです。複眼思考という表現が可能かも知れませんし、俯瞰する視野が必要という話かも知れません。
あるいは著者の他の著作までセットで読んでいくことで、一つの作品だけでは伝わらなかった世界観や思想・哲学・美学といったものが見えて来ます。さりげなく書かれた一文が、全著作という文脈の中に置かれると、まったく違う輝きを帯びてくるということは、往々にしてあるものです。
政治的な主張が絡む場合、いろいろな主張の書籍を読みつつ、それぞれの論点と主張と依拠する事実、その上に構築されたロジックを比較しながら検証しないと恐らくは、理解できないはずです。
例えば最近のコロナ問題や、少し前のTPP問題などを思い浮かべてみるといいかも知れませんね!
3.社会・時代の文脈
例えば、近年また注目されて、リバイバルした名著『君たちはどう生きるか』という本。
この本は、普通に読んでしまえば、単に道徳的な内容の物語に過ぎません。どのお話も「いい話」ですが、それだけのことです。
しかし、あの本を「戦前の日本」という社会の文脈、「戦争前夜の、アジアの中の日本」という文脈で捉え直すと、コペル君が発見した「網目の法則」(人と人とが社会の中でつながりあっているという事実の発見)も、貧乏人の子がいじめられるのを止めに入るのも、ナポレオンの行進の話も、何とも教訓めいた色が浮かび上がってきます。
ちなみに、この作品が収録された『日本少国民文庫』を編纂した山本氏は、次のような意図を持っていたと、後書き「作品について」で書かれています。
今日の少年少女こそ次の時代を背負うべき大切な人たちである。この人々にこそ、まだ希望はある。だから、この人々には、偏狭な国粋主義や反動的な思想を超えた、自由で豊かな文化のあることを、なんとかしてつたえておかねばならないし、人類の進歩についての信念をいまのうちに養っておかねばならない
── 同書 P.302より
つまり、本書は「少年少女のための倫理の教科書」として書かれているわけです。
4.歴史の文脈
ここまで考えなければならない本は、あまり多くないかも知れません。
しかし、3で紹介した『君たちはどう生きるか』も、明治期からの富国強兵・欧米列強との帝国主義的駆け引きの歴史の文脈の中で読むと、また違った色を帯びてくるかも知れませんね。
同じように考えると『学問のすすめ』もそうですし、2000年代に大ベストセラーになった『国家の品格』なんて本もそうでしょうか。『学問のすすめ』は今も名作として読み継がれていますが、歴史の文脈の中で理解すると、恐らくニュアンスが変わってくるでしょうし、『国家の品格』に至っては、15年経ってみると、なぜあの本が売れたのか理解できない人もいるかも知れません。
理解の4つの象限(深い理解に“速読”が必要なわけ)
ここまでで、なぜ「丁寧に熟読するだけでは深く理解できないか」が見てきたのではないでしょうか。
何かを理解するとき、視野は広い方がいいし、分析の視座や対照すべきサンプルやロジックは複数あった方が、断然理解が深まるものなのです。
ちなみに、これを分かりやすく表現したのが、このマトリクスです。(Kintschの構成・統合モデルを参考にしています。)
4つの文脈の一つ目の「書籍全体の文脈」が横軸の右側に置かれています。
この横軸からは、ミクロに寄った理解とマクロに寄った理解が別ものであることが分かります。そして、現実の読書では、その両者を行き来しながら、しっかりとした理解を構築していくことになるのです。
残念ながら、よほど読書に熟達していない限り、緻密に熟読している限りマクロの構造は理解できません。
縦軸は、「テキストベース」つまり「書かれている言葉の理解」から「書籍全体を包み込むコンセプトの理解」(これを「状況モデル」と呼びます)へと次元が上がっていくことを示しています。章を横断しても一貫した筋が見えたり、時間的・空間的な関係を整理したり、因果関係を見出したりします。これは文章を丁寧に読めば分かるということではなく、既有の知識やロジックで行間を補いながら理解することで成立するものと考えられます。
そして、当たり前のことですが、前提としての知識、比較対照の対象となる事例、フレームワークなど、多読によってしか手に入らないことも多く、テキストベースであれ「マクロ構造」を理解するためには、ある程度、細かなことに目をくれず速読していく読み方が必要になるものです。
「熟読こそが深い理解を作る」と主張する人たちは、そういう事情を無視しているわけです。
読書の理解を「文字を丁寧に読めば得られる」と思い込んでいるのかも知れません。それはとてももったいないことですし、それを声高に主張するのは残念なことです。
結論
そういうわけで、深い理解を手に入れたければ、上記の「理解の構造」を理解した上で、速読と熟読を両輪として読書に取り組んでいく必要があります。
とくにマクロ構造の把握は、慣れるまでノートに全体像が分かるようなメモを取るか、目次を使って構造を分析するかといった思考を外化して整理する練習が必要になります。また、既有知識と読んでいる内容を結びつけるためには、意図的・意識的に既有知識を取り出して、読んでいる内容と対照するような作業が効果的です。
こういう理解を本当に深めるための構造を理解した上で、それにふさわしい速読スキルや読書ストラテジーを活用してこそ、分析的な熟読が生きてくるということを、ぜひ理解しておいてください。
その具体的な取り組み方などについては、また機会を見て書いてみたいと思います。